花葬里

生きたことを、忘れないで。

今起きなかった場合は後悔しますか。

  結局四月には間に合わなかった。

  それでもやるべきこと、片付けるべき仕事は大体終わらせた。

  最後の一週間はちゃんとした午前中が持てるように起きることができて、五月の職場復帰の下準備をできている。

  毎朝最初に目覚めたときのこの質問にも「はい」と答えたときにしっかり起きることができた:

  「今起きなかった場合は後悔しますか?」

 

 

|弱虫は、幸福でさえ――

 

  四月の初めに、手早く『人間失格』を読み終えた。

  不思議な順番だ。

  自分にとっては読書は魂のような行動だが、その魂が貧弱であるため、自分を本好きや文学少女と呼ぶには至らなかった。それでも日本語と日本文学を求めてこの国に来た身で、人間失格は今更と感じざるをえなかった。

 

  主人公の気持ちは大体理解したと思う。

  最初から思考の仕組みが人間と違うんだ。なれあえるわけがない。自分と他人は全く違う生き物のように思える。でもそれはどちら側が間違っているとか劣っているとかの話はなかった。ただ単に違うという客観的な事実のみが存在するのだ。

  そして唯一の救いである女が汚されたら、人の世から希望は完全に失われてしまう;信頼している(あるいは特にしていない?)ものに気違いだと判断され、ノーマルでない生物に分類されたら、もはや人間であろうなどどうでもよくなった。

 

  別にわかったつもりで言ってるのではない。

  ただ単に、そうだったかなるほど一理あるなこの状況では!と思えただけだ。その時代はそういう状況に陥ったらそうなるんだよな、それに人間でなくでもどうでもいいことだったしな、ぐらいに思っている。

  でも、もし自分が主人公の立場なら、罰を普通に受け入れるか、もっとまともな生活を送って罰を軽減するか、周りよりずっとうまくやって攻め側の立場を奪うなどしたかもしれない。本心を守るためなら、偽りの姿などいくらでも作れる。表に出したい真心はいくらでも殺せる。表が化け物で、裏も歪みまくっていてもどうってことない。

  だって、生きていきたいから、まずは。

 

  でも、それほどの感想しかなかった。

  特に悲しみや絶望はしていなかった。

  そもそも今の時代だって、人間は生物としての生き様は大して変わらなかったからだ。まったく変わっていない。

 

  けど、あとがきにはかなり驚いた。

  まず、あとがきが本文よりずっと熱血だった、特に太宰の連載を待つ読者の気持ちを考えたら。それに、太宰の実際の人生と小説の関連性がわかって、太宰のために涙を流し、時代のために心を痛むなどはしてもいいと思った。

 

  そして兄に連絡した。

  「やっと『人間失格』を読んだよ。割と普通だった。でもあなたにはもっと共感できるかもしれない。感想を期待している」

  「そうか。『人間失格』か」

 

  兄も出世を前にして仕事をやめ、転々と面接をし、入社してもやる気がなく、とうとうノーマルでないと周りの人間が判断するようになるところまで狂った道を開いた。私は昔の兄に戻ってほしいとか、再び二人で運命と抗う旅を続けてほしいとかまでの高望みはないが、せめて兄がしっかり今の自分が置かれた状況をちゃんとわかっているうえでその方向に進むことを自ら選んだと知りたいのだ。

  進んで気違いになる人間は、みんなと同じ人間なんだ。

  だけど、兄からはそれ以外の返事はなかった。

  なかったまま、一週間前に、私は彼の連絡先を削除した。

 

 

|私は井戸ではないのだ。

 

  KTTさんに自分と家族の現状を、こんなたとえで説明したことがある。

  「限られた水しか持っていない私は、ただの雨上がりの水たまりだ。水たまりの水を使って汚れを洗ったら、どんどん汚くなっていくのだ。それで汚れた分を清めるために、時間と次の雨が必要となる。だけど、家族は際限なくこの水たまりを汚し続ける。なぜなら彼らは、水たまりがある限り、どんどん汚れを持って帰っても構わないと思っているからだ」

  そしてKTTさんにこう聞かれた。

  「もしあなたが水たまりじゃなくて、本当は井戸だったら?」

  「だってわかっているのだ、自分の限界を。井戸になれる才能がないのだ」

  「頑張って井戸になろうよ」

  「何のために?」

  「家族だもの」

  「家族だからなんだっていうのだ?」

  「……」

 

  KTTさんには申し訳ないとは思うけど、私にはどうしても世間の言う「家族」が尊く思えないのだ。

  なんで彼らは水たまりですらないのかを考えてしまうのだ。

 

  一週間前、母から久しぶりの連絡があった。

  兄は病気になって、仕事はしばらくは休む;父は定年退職を前に、勤務中に酒を飲んで人に喧嘩を売ってクビにされた上に大半の年金を失った。重病の兄と無職の父の面倒を見るため、実家の家を手入れして住むことになったから、手入れのためのお金はないかと聞かれた。

  当時私は特に怒ってはいなかったと思う。

  私以上の才能を持っていながら廃人であり続ける兄;立派な給料をもらえる楽な仕事を平気で捨てる父;何があっても兄と父のためにいつでも帰れる暖かい家を用意しようとする健気な母;そんな母にお金を提供すべきだと思われている自分。

  そう。別に怒っていはいなかった。

  ただ単に夢の中で知っている人と知らない人に何度も殺されたように、自分の最後の責任感を殺したいだけだった。そうしたら清々する。誰もが楽になれる。この解決案は私一人でもやれる。他人に迷惑をかけずに済む。

 

  「来月からの仕事は英語も使うようになった」

  「そうか。頑張って」

  「なんで私に頑張ってって言えるのに、自分は頑張らないの?」

  「俺は君に才能を持っていかれたから」

  「私の能力は勉強した結果でしかない。それはあなたが本来持っているものとは関係がない」

  「そうだね、才能を伸ばせない人間はいるのさ」
  「それで人に迷惑をかけているのがわからないの?私だけ律儀に一生懸命生き延びようとして、あなたたちは平気で自分の人生だけでなく、私の人生まで壊したのよ。不公平よ」

  「だって俺は病気だから。おやじは仕事を失くした」

  「病気になったのは体をぞんざいに扱うからだよ。おやじは自業自得だ。それで普段から気を付けて仕事も頑張るどんどん勉強する私が健康で給料が高いからそんな目に遭わなきゃいけないというの?話をしても時間の無駄ね」

  「君の時間は大切だからね。俺は命が大事だよ」

  「誰の時間だって大切なのよ。あなたが自分の時間の価値を捨てただけよ。それに私だって命は大事よ。誰だって命が大事だもの」

  「うん、君はいい奴で、俺は悪い奴だ」

  「…兄さま、あなたは私の唯一の神様だった。でも私は自分の道を歩むよ。さようなら」

  「だった」

 

  そして私は兄と縁を切った。

  今度こそ、永久に。

 

 

|頑張ればできるというのは恐ろしいのだ。

 

  四月中旬に、営業からやっと英語能力が必要な案件を持ってくれた。

  これで自分の面接が合格できる確率は上がるかもしれない。

  問題は、自分も何年も英語は使っていないのだ。資料を調べるためにもちろん普通のドキュメントは読めるが、聞くのと話すのは本当に久しぶりなのだ。

  ただ、一日ぐらい専門用語を調べ、英語で自己紹介と通常の質問に答えられるほど準備できたら、ぎりぎり面接に合格できた。

 

  自分でも驚いた。

  大学三年生になって、日本語を本格的に勉強するようになってから、英語はほとんど捨てられたようなものだった。いずれ今の業界を出て、日本語英語の両外国語を使っての翻訳仕事をするつもりとは言え、まだ英語復活の準備すら開始していない。それなのに一日だけの努力で面接に合格できるほど語学力が蘇ったなんて信じられない。

 

  ただの運、だと思う。

  それでも、もっと頑張れるほどの自信を持てた。それだったら運だって構わない。

  これからは日本語と並行して英語の勉強も日課にしておく。

  もっと難しい仕事をして、いい給料をもらう。そして余裕のある生活を送って、母に……母に…………

  いいんだ。もうこれ以上の血は、一滴も、一滴も……

 

  ……いやだ。

  こんなのいやだ。

  ゴールを教えてくれ。

  限界を教えてくれ。

  もう十分だと、言ってくれ。

  よくできたと褒めてくれ。

  憎しみからではない原動力があることを、教えてくれ……

 

  でもどうせこの悲しみと絶望もすぐに殺されるけどね。

 

 

|出口のない羊シリーズ。

 

  最近知り合った友達が村上の『ダンス・ダンス・ダンス』を読んだことがあると言っていたので、村上の作品が大嫌いでも、羊シリーズの本を四冊まとめて買って読んだ。

  村上の作品は大学以来だ。

  やはり『ノルウェイの森』だった。あの時の日本語はまだ下手だったけど、それでも彼氏のおすすめだから意地を張って原作を読んでみた。そしてわかってしまった。彼にとって遠距離恋愛の私は、直子のような、いずれ死の側の存在となる非現実的な存在だった;そして彼を積極的に色んな集まりに誘う学校の先輩こそが、彼を現実世界に繋げる命の代表である緑子だった。

  彼とは高校のクラスメイトで、二年生の時、私の初恋になった。三年生になって、担任の先生の介入もあって別れた。そしてそれぞれの大学に入って、大学一年の終わりにやはり仲直りして、また恋愛関係を築いた。そして、二年近くも付き合って、初めてと言えるデートをして、当日の夜に電話で別れた。

  こちらとしては、別に好きでなくなったわけではない。ただ彼の存在意味は、別に恋人としての関係ではなくても、私にはもう十分だ。だから、彼に恋人がいることを知っているかどうかの知らないあの先輩に、譲ろうかと思った。いや、違うかもしれない。私はただ、自分に魅力がないことを認め、この奪い合いの中でみっともなく破られる前に、身を引いただけかもしれない。

 

  ただ確実なのは、それ以来私は、村上の作品におけるすべての主人公を嫌い、堂々と物語の中心を絡ませる性の描写をとことん吐き気がした。

  でも別に村上の作品を全否定しているわけではない。むしろ世間が評価するようないい作品だと言えるぐらい、作品に込めた力を感じている。羊シリーズで言うと、『羊をめぐる冒険』で暗闇の中にやっとネズミと再会できたところと、『ダンス・ダンス・ダンス』でユキが映画館で体調不良になり、その後五反田君がキキを殺したことを話すところを読んだとき、体に寒気がして、冷汗でパジャマがびっしょりになってしまった。自分の部屋もなんだか異空間のように思え、しばらく現実に帰ってこれなかったほどだった。

  言いたいことはしっかりと伝わっている。

  気持ちは効果よく描くことができている。

  その上で何が不満かというと、物語は単なる主人公の喪失感について見事に描いただけ。最後の最後にユミヨシさんと体の繋がりで現実を迷わないようにしているが、根本的な答えはない。小説の言葉を借りれば――出口がない。

  主人公は始終何もしていないし何も頑張っていない何も変えられていない。羊男が現実に繋げてくれるとか、イルカホテルが自分のための場所とか、白骨が置いている部屋が自分のための場所とか、キキを含めてみんなが主人公のために泣くとか、主人公は何を持ってして世界の中心に立つ資格を得たというのだ。

  それに、何もかも性とか死とかを出せば、シリアスな振りができると思って無駄に使過ぎだ。喪失について、命の終わりについて、もっと気を使って扱うべきだと思う。

 

  これらの意味では、吉本ばななはもっとよくやっている。

  村上の作品が死に満ちて、最後までも喪失し続けるというなら、吉本は死から物語を始め、生きることの本当の意味を求め、死んでしまった細胞を丁寧に再生させるように話を紡いだ。ちゃんと冷たい現実を受け入れるまで暖かく見守ってくれている。大切な人を失った悲しみとちゃんとさよならをするきっかけの探し方を教えてくれている。

  答えのない恐怖と絶望など、駄々をこねる子供みたいだ。

  失うことと隣り合わせながらなお、希望を取り戻す勇気を持てる結末こそ、私たちが本当に求めるべき目標だ。

 

 

|四月について後悔するか。

 

  まるっきり一か月が待機となっていた。

  一週間を使って部屋に防音空間を使った。そして一週間の読書。また一週間の面接に、最後の一週間の読書。防音空間は完成した。五月からの仕事は決まった。羊シリーズを読み終えて、やっと村上から解放された。この日記を書いたら楽器の練習をやっと始められる。

  特に何かを成し遂げたとは言えないが、後悔はなかった。

  私がちゃんと頑張れて、望む方向に進める限り――

 

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羊シリーズ